出典: 日本経済新聞
2014年9月10日
テニスの四大大会、全米オープンで錦織圭(24)がアジア男子初の準優勝という快挙を成し遂げた。今大会はジュニアの部の男子ダブルスで中川直樹(17)が初優勝を飾った。四大大会のジュニア制覇は錦織が男子ダブルスを制した2006年全仏ジュニア以来。いずれも10代前半で渡米し、世界のスポーツエリートとの競争にもまれてきた選手だ。
決勝の試合後の記者会見で、錦織はある人への感謝を口にした。日本テニス協会の盛田正明名誉会長。同氏が私財を投じて設立した通称「盛田ファンド」の奨学金をもらって、錦織は13歳、中川は12歳で日本を飛び出し、シャラポワ(ロシア)らが育ったフロリダ州のアカデミーで英才教育を受けてきた。
「(盛田さんは)決勝を一番見てほしかった人。今回は来ることができなかった。次に優勝を見てもらうためにきょうは負けました」。完敗に終わった悔しさを冗談で紛らせながらも恩人への感謝の思いがあふれた。
ダブルスが強いインド、アジア男子で初めて世界ランク10位内に入ったスリチャパンを擁したタイなど、アジアは単発で強い選手を輩出してきた。これらの選手に共通するのは全員、裕福な家に生まれ、海外に練習拠点を持っていたこと。
ソニー創業者、盛田昭夫氏の弟の正明氏は自らパトロン役を買って出て、00年にファンドを設立。若き有望株を選抜し、渡航費、滞在費などをすべて負担した。島根出身の錦織は4期生で、同ファンドが生んだ初のプロ選手だ。全米の日本男子は錦織を含む4人が出場したが、錦織と西岡良仁(18)は同じフロリダ州、ダニエル太郎(21)はスペインと、10代の早い時期に海外修業に出た経験の持ち主だった。
錦織らが腕を磨いたアカデミーはテニスだけでなく複数のスポーツをカバーする。同地を拠点にするゴルファーの一人が沖縄出身の宮里美香(24)。日本女子アマを14歳で優勝した宮里は高校卒業後すぐに渡米、日本のプロテストを経ることなく米国でプロ転向した。
サッカーでは早くから10代で海外に渡る選手が多かった。先駆けの一人が、1982年に高校を中退し、15歳でブラジルに渡った三浦知良(47)。そのサクセスストーリーに魅せられた多くの若者がブラジルや欧州へ渡り、サッカー留学をあっせんする業者も増えた。現在は年間1000人以上の日本人が留学しているともいわれる。
一方で、欧州の名門クラブは世界中にスカウト網を張り巡らせ、才能をかき集める。11年1月、愛知・中京大中京高3年時にイングランド1部リーグのアーセナルに5年契約で加入したFW宮市亮(21)はJリーグを経ずに渡欧したことで注目された。
J1川崎の育成チームに所属していた当時小学4年生の久保建英(13)は11年、バルセロナ(スペイン1部)の下部組織の入団テストに合格。世界的なスター、メッシ(アルゼンチン)に似ているともいわれる繊細なボールタッチ、パス技術で将来を期待される。
ただ、こうした早期英才教育の加速、拡大がこのまま続くかというと、不透明だ。国際サッカー連盟(FIFA)は青田買いの規制に乗り出した。01年には18歳未満の選手の国際移籍を原則禁止し、両親がサッカー以外の理由で移住した場合などに限って移籍を認めている。バルセロナの久保のケースをFIFAは問題視し、久保は18歳まで公式戦に出場できない可能性があるといわれている。
出典: 選手の裏ニュース
2014年、全米オープン男子シングルスで準優勝に輝いた錦織圭の両親に注目が集まっています。天才テニスプレイヤーを育てた両親はどんな人達なのでしょうか?
錦織圭 両親 画像1
決勝で敗れはしましたが、日本のテニス界の歴史を大きく変えた瞬間だったことは間違いありません。どのように錦織は育ち、その才能が開花したのかを徹底調査してみます!
生まれた時から世界を目指す?発音しやすい「KEI」にした理由
錦織の両親は、海外でも通用する、発音しやすい名前を・・ということで息子を圭と名づけたようです。しかし幼少時から「テニスプレイヤー」にという考えではなく、サッカーや水泳、野球など色々なスポーツに親しませ、その結果として錦織はテニスを選んだといいます。
錦織圭 両親 画像2
5歳の頃に始めたテニスに「天性の才能があるのでは?」と感じた父親がすでに当時から「どうせやるなら世界を目指そう」と考えていたのだとか。地元のテニススクールに通わせ、小学校6年生で全国小学生選手権での優勝など三冠のタイトルを持つほどの有名選手に育て上げます。しかし、それで満足しなかった両親は専門書を読みあさり、息子の海外テニス留学への道を探ったようです。
日本一という結果だけでは、世界に通用する選手にはなれないと思ったのでしょうね。
中卒だっていいじゃないか!義務教育中に海外留学で開花した才能
ソニー創業者一族が設立したテニスファンドに錦織が合格したのは中学2年生の時でした。ここで支援選手に選ばれた錦織は、アメリカのフロリダにある全寮制のIMGアカデミーに留学します。言葉も通じないなか、厳しい練習を重ねた結果が後のビッグタイトルにつながりますが、大きなリスクも考えられる留学だったと後に両親は語っています。
錦織圭 両親 画像3
まだ13才で、しかも通用しなかったりケガなどがあれば、戻ってきても学歴は中卒になってしまいます。しかしリスクは大きいけれど、トッププレイヤーになれる大チャンスもあると両親は考えたのだそう。息子の将来を見据えての行動だったようです。
全力で応援し、サポートするつもりでなければ、まだ幼い息子を海外留学させる気にはなりませんよね。一歩、二歩先を読む感覚で子供の才能を見抜き、育て上げた錦織の両親の子育て法が今後も注目されそうです。
出典: LAUGHY
本田望結さん「七田チャイルドアカデミー」のHPにイメージキャラクターとして活躍している本田望結さん。
本田家の子どもは全員、とある塾に通っているのだそうです。
その塾とは「七田チャイルドアカデミー」というところ。
現在本田望結ちゃんがイメージキャラクターとして採用されています。
塾というと、ガチガチの教育をしているところという印象があるかもしれませんが、七田チャイルドアカデミーはそういった教育の場ではなく「ひらめき」や「創造」などの能力を遊びの中から鍛えるゆるい感じの教室だそうです。
出典: 本田望結の通う塾に彼女の凄さの秘密があった!? |
教えるというよりも、脳の発達過程に基づいて、健全に、かつ適切に子どもが成長していくよう親と一緒に子供を育てていくというコンセプトで開いている教室です。
0歳児の頃から入塾できるそうで、無理せず英才教育を受けられるみたいですね。
本田望結ちゃんは七田チャイルドアカデミーに1歳の時に入塾し、みるみる才能を開花させていったようです。
脳の発達という観点に着目し、親さんが大切に育ててこられたからこそ今の望結ちゃんのスゴさがあるというわけですね。
出典:本田望結の通う塾に彼女の凄さの秘密があった!? | 最新版!話題のニュースを最速でお届け!
「人は環境と教育で全てが決まる」という言葉がありますが、まさに本田望結さんはその最たるものですね。
本田望結さんだけでなくご兄弟全員が何かしらの才能を開花させている秘密は親御さんのバックアップがあったからこそと推測します。
気になる本田望結の親御さんのご職業は?家族みんなでフィギュア!!
ご自身もフィギュアスケーターだったというお父様。
出典: ecx.images-amazon.com
ご自身もフィギュアスケーターだったというお父様。現在は「本田家流子育てのヒント 長女を育てて、四女に教わった」という本を出版されているみたいです。
お子さんたちを英語教室に通わせたり
スケートをさせたり
ものすごくお金がかかりますよね!
なので、お父様はお医者様では!?
という噂がありますが
そうではないようです。
何と、本を出版されています!
お父様のお名前は本田竜一さんです。
1968年大阪府生まれだそうです。
~中略~
本の題名は
「本田家流子育てのヒント 長女を育てて、四女に教わった」
出典:本田望結フィギュアスケートの実力すごい!兄妹もスケーターだって!?どんな親なんだろう。
本田望結の姉「本田真凛」はフィギュアスケートの強化選手。姉妹兄弟のフィギュアの一面まとめ。
日本スケート連盟所属の本田真凛
日本スケート連盟所属の本田真凛これまでの成績も光るものがあります。
2014 クープドプランタン(Adv.Nv.) 2位
2013 全日本ジュニア選手権 5位
2013 全日本ノービス選手権 3位
2013 アジアントロフィー(Adv.Nv.) 2位
今年の目標として「壁を作らず、先のことを練習する」と語る本田真凛さん。
これからの活躍に期待したいですね。
姉も日本フィギュア会の「金の卵」本田真凛フィギュアの腕もさることながら、しゃべりも上手いとの噂も。
本人も日本フィギュア会の「金の卵」本田望結演技に力強さを感じます。
実は兄、本田太一は国際ジュニア大会で表彰台にも上った実力
実は兄、本田太一は国際ジュニア大会で表彰台にも上った実力リンクの外での一枚。
。
妹の紗来さんも登場。
妹の紗来さんも登場。映画「アナと雪の女王」の舞台あいさつにて妹の紗来さんと登場。挿入歌に合わせてフィギュアの腕を披露しました。兄弟姉妹みんなフィギュアしてます。
最近の本田家のフィギュアは?
2013年9月26日から29日に近畿フィギュアスケート選手権大会があり、望結ちゃんが出場しています。
全国大会目指してがんばった結果、6位までに入れば全国大会に出場できるところ、見事に4位!
全国大会の切符を手に入れました。
他に、茨城県で10月25日から27日に全日本ノービスB大会が行われ、望結ちゃんが出場しました。
結果は8位!
しかしこれはなんと36人の中でです。
しかも出場者は9歳から11歳。
そして望結ちゃんは9歳。
大したものではないですか。
出典:本田望結ちゃんのスケートの実力ってすごい!: ホットなトレンド情報!
現在もフィギュアで活躍する本田家。
女優にフィギュアの両立をこなす本田望結さんのみならず、他のご兄妹のこれからの活躍のも期待です。
出典: 選手の裏ニュース
今や、数々の大会でメダルを獲得し、すっかり日本フィギュアスケートの顔となった浅田真央さん。そんな彼女のスケーター人生を作りあげ、支えたのが母の匡子さんでした。匡子さんは、残念ながら2011年12月9日に逝去されています。天才スケーターを育て上げた、彼女の素顔に迫りたいと思います。
母親の職業は?
母親の職業は、元水商売をされていたと言われています。はっきりしない部分は、真央さんがスケーターとして活躍され始めた頃には、すでに専業主婦をされていたからです。何でもそうですが、特にスケートというのはお金のかかるもので、浅田家では真央さんの他にお姉さんの舞さんもスケートを習っています。また、その他にも姉妹はバレエなどの習い事をたしなんでいました。
とでもではありませんが、普通のサラリーマンの収入ではまかなうことができません。ちなみに、父親は実業家とのことですから、お仕事柄母親と出会う機会があったのかもしれませんね。
母親の死因は肝硬変?
匡子さんの享年は48歳という若さでした。死因は肝硬変です。匡子さんは20年以上前から肝硬変を患っていたそうですが、亡くなる年には薬でごまかせるような状態ではなかったといいます。
顔が土気色になっていて、黄疸のようになっていたと近所の人は話していたようでした。長女である舞さんが肝臓移植に適合していたのですが、匡子さんは直前になって手術を拒否します。結局、父親の肝臓を移植することになりますが、これには相当の危険が伴いました。術後の匡子さんの経過は思わしくなく、拒否反応が強くあらわれたのです。
真央さんへのスケート教育
真央さんは、3歳の頃からスケートの他にも9つの習いごとをしていました。小学校の頃になると、スケートに焦点があてられ、大会などで出席日数が少なくなり、学校に呼び出されることもあったそうです。そんなとき、匡子さんは「娘の人生がかかってるんです」と頭を下げていました。さらに、「3回転ジャンプが飛べないと、今日はご飯抜きだからね!」とスパルタ式の教育で真央さんを訓練していたということです。
匡子さんのエピソードでもっとも驚くべきことは、バンクーバオリンピックで真央さんが師弟関係にあったタラソワコーチと関係が破たんしたときです。「もう日本人は二度と指導しない!」と激怒したタラソワコーチに対し、匡子さんは自らロシアに飛び、直接交渉を試みました。大の日本人嫌いだったタラソワコーチを振り向かせた手腕は、IOC関係者をも驚かせました。
真央さんの活躍に、ここまで尽力された匡子さん。真央さんの今後の活躍も、きっと天国で見守っていらっしゃるでしょう!
出典: Livedoor News
2014年5月7日 7時0分 女性自身
ラウンド中に六甲おろしを口ずさむ阪神ファンの15歳の少女が、一躍、時の人となった。ゴルフ界に彗星の如く現れたニューヒロインの勝みなみ。4月18~20日に熊本でおこなわれた「KTT杯バンテリン・レディス」で、宮里藍(28)を抜き、国内女子ツアーを15歳293日で優勝。日本史上最年少優勝の金字塔を打ち立てた。
初優勝を決めた強気のウイニングパットが印象的だったが、小学2年から6年まで彼女を教えていた「KOUDAゴルフスクール」代表の武村庄子さん(45)は、その理由をこう話す。
「みなみちゃんがおじいちゃんに連れられて私のスクールに来たのは、小学2年の中ごろでした。一度、ラウンドレッスンのときに、パットを打ち損ねたので『チョロしたね』と言ったら、すっごい勢いで泣きだして。周りのコが必死になだめても、『チョロって言った!』と泣きやまなかったんです(笑)。それがよっぽど嫌だったのか、パットは強気で打つようになりました」
優勝した試合で、「パットがよかった」とプロの選手たちが口を揃えた強気のパットは、どうやらこのころからのようだ。もうひとつの彼女の持ち味が、身長157センチと小柄ながら、飛距離のあるドライバーショット。これは体幹の強さがもたらしたようだ。
「アドレスのときに足を曲げることで、膝を壊したり関節炎を起こしたりと、体に支障をきたすコが多かった。なので、みなみちゃんには足を伸ばして打つようにと教えました。回転運動で打つスイングです。すごく飲み込みが早く、集中して練習をするコで、毎日最低100球は打っていたと思います。とにかく距離が飛ぶようになり、ドライバーの飛距離は、小学5年ぐらいには、230ヤードは飛んでいましたね」(武村さん)
ちなみに、当時のゴルフスクールのレッスン料金は10回で1万5千円。打ちっぱなしの球は1球8円。週に3~4回通っていたとのことなので、“英才教育費”は、ざっと計算すると、ひと月4万円といったところか。勝選手と二人三脚で歩んできた彼女の祖父・市来龍作さん(74)は、勝選手がゴルフを始めたころのことをこう振り返る。
「私がゴルフ好きでしたから、4~5歳のころは、一緒にゴルフ場に連れて行っていました。小学1年のときに、おもちゃのパターを買ってあげたら喜んでね。それからゴルフに興味を持ったみたいです。小学6年から中学に入ったころに、ドライバーの飛距離も伸びて、ぐんぐん上達した。ここ数年は周りの人たちと、もしかしたらあるかもねなんて話してはいたんですが、まさか本当に優勝するとは思いませんでした。想像よりも5~6年早かったですね」
初優勝時の賞金は1千800万円。彼女はアマ選手ゆえに賞金を受け取ることはできなかった。ただ、金額以上に手にしたものは大きかった。
出典: 女性自身
「英国のブックメーカーが公表した、内村選手の個人総合での金メダル獲得についたオッズは実に1.25倍。あのボルト選手(1.67倍)よりも優勝が確実視されています」(スポーツ紙記者)
大会前から、金メダルの大本命として呼び声が高かった男子体操の内村航平(23)。超高難度の技を次々と繰り出すことを可能とさせてきたのは、ずば抜けた“空中感覚”と、競技に対する常にポジティブな姿勢だ。
その礎を築いたのが、地元・長崎県諫早市で体操教室を営む両親の教え。生まれて間もない息子には“英才教育”が施された。母・周子さんは、本誌にこう語っている。
「右脳が発達しているほうが独創的で豊かな子供に育ってくれるのでは、と生後6カ月ごろからジグソーパズルをさせ、絵本をパッと見せて何が描いてあったのか思い出させたり、本や新聞を読み聞かせるなどしていました」
両親は内村少年が小学5年生のときに、体操教室にトランポリンを購入した。彼は遊び感覚で毎日その上を飛び跳ねていたという。
「私達が大切にしてきたのは、体操を楽しく、好きでやってほしいということ。航平には『目標よりも夢を持ちなさい』と言ってきました」
体操一家に生まれながら、決して強制されることなく、幼少期から自然体で育まれた選手としてのルーツ。内村は大舞台を前に「早く演技がしたくてしょうがないと言ってのけた。選手村にある、大好きなマクドナルドで食事をとりながら、彼は大一番にも自然体で臨んでいる――。
出典: こども応援便り
――イチロー選手は、どんな子どもだったのですか?
3歳の時に、はじめておもちゃのバットとボールを持たせたら、その日から寝る時も離さなくなったほど、野球好きな子どもでした。
小学3年生で地元のスポーツ少年団に入りましたが、当時は日曜日しか練習がありませんでした。すると一朗が、「平日はお父さんと野球する」と言い出して。毎日、学校から帰って来てから暗くなるまでキャッチボールをしたものです。
子どもが夢を見つける最初のきっかけは、親が与えるものだと思っています。もし一朗がサッカーをやりたいと言っていたら、私も一緒にボールを蹴っていたでしょう。
――いつからプロ野球選手を目指していたのですか。
本格的に野球を始めたのは、小学3年生の頃です。6年生では、「夢」という課題の作文の中で、はっきりと「将来は、一流のプロ野球選手になりたい」と書いています。担任の先生から、「大きな夢があるって、とても張り合いがあっていいですね。誰にも負けないぐらい練習をしてきたという誇りがある限り、夢は叶うでしょう」という言葉をもらって、大喜びでした。
――そんなイチロー選手でも、野球をやめたいと思ったことがあるとか。
高校に入学したての5月のことでした。練習試合に投手として出場し、散々打たれた後に、「野球をやめたい」ともらしました。私は理由を一切聞かずに、「後悔先に立たず、ということがある。自分でしっかりと考えなさい」とだけ言いました。見守ることに徹したのです。
子どもが落ち込んだ時は、見守ってあげる大人が必要だと思います。そうすれば、子どもはやがてまた、自分で歩き始めるはずですから。
――野球を通じて、伝えたかったことは何でしょうか。
一朗には、「人はひとりで生きているわけではないんだ」と、いつも言い聞かせていました。野球がうまくても、周囲に感謝できない人間ではしょうがないですから。
小、中、高校で出会った野球部の監督や仲間たちをはじめ、ご近所のみなさんも、常に私たち親子を見守り、一朗の夢を応援してくれました。
私たちが通ったバッティングセンターの社長が、一朗のために特別速いボールが出るマシンを用意してくれたこともありました。そういう方々のおかげで、今のイチローがあるのだと、一朗自身も分かっていると思います。
――子どもの教育に関して、一番大切なことは何でしょう。
小学2年生の時のイチローと宣之さん
20歳までは、親の責任でしっかりと教育しなければならないと思いますね。その中でも少年時代、いわば義務教育の間が特に重要で、この期間に親や学校の先生をはじめとした周りの大人がちゃんと見てあげることが大切です。そうすれば、子どもは間違った道には進まないし、自分の夢や目標に向かって努力できる子どもになります。
――今、日本の教育が問われています。
教育は一朝一夕でできるものではありません。地道に、ねばり強くコツコツと種をまいてやっと、花を咲かせるものです。手間、愛情、お金がかかるものですし、そうあって当然のものだと思います。教育をおろそかにした結果は、先が見えていますから。
教育はよくも悪くも受け継がれていくもの。だからこそ、今、日本の将来のために国に真剣に教育に取り組んでもらいたいし、私たち国民の一人ひとりも、もっと関心を持たなければならないと思います。
そうして、子どもたちがのびのびと夢を描き、はぐくめる社会をみんなで支えていきたいですね。
出典: 絵ココロ絵画販売・制作
伸行さんの家族構成ですが、
母・いつ子さんはフリーアナウンサー。
祖父・信孝さん、父・孝さんは、横浜で産婦人科医院をされています。
祖母・京子さんは、医院の事務長。
おじいさんは、目が見えない伸行さんが生まれてきたとき、
「こういう赤ちゃんはどこかで生まれてくるもの。
うちに生まれて来たのだから大事に可愛がってあげよう。」
と言ったそうです。
そしておじいさんは、生まれてすぐから、鳥の声や川の音など、自然の音をたくさん聞かせるようにしました。
生後半年には、オペラのカルメンを聞いて、「アー」と言う場所で同じく「アー」と声をあげるなど反応を見せていたそうです。
伸行さん8ヶ月の頃、母・いつ子さんは気づきました。
ショパンの「英雄ポロネーズ」を聴いて、足をバタバタさせていたそうです。
同じ曲でも演奏家が異なると違う反応を示すことにも気づきました。
「この子には音楽の才能があるかもしれない」
と思ったそうです。
信子さんは当初大変辛い思いをされていたそうで、
「自分に当たり前のように見えている世界が息子には見えないことに落胆したり、絶望感がありましたが、『でも、あの笑顔を見ていると、二人で死ぬなんてこと考えられない。』」
と思ったそうです。
福沢美和さんの本『フロックスは わたしの目(著:福澤美和)』を読んだとき、障害者への自分の気持ちが違っていたと、気づいたそうです。
●美術館や花火など、見えないから連れて行かないではなく、言葉で説明して、彼なりに体感してもらえればいい。
●目が見えないからストップをかけるのではなく、どんどん積極的に。
●なるべく行動範囲が狭まらないようにする。(スキー、自転車、学校の移動教室など自然体験など)
美術館では、作品ごとに立ち止まり、色、形、様子を語って聞かせる。
現在の伸行さんはこういいます。「花火に行っても、心の中で色とりどりの花火が開く。母のおかげで、何でも心の目で見られるようになった。不自由はありません。」
ピアノを始めた4歳当初は、ピアニストになってほしいという目標はなく、彼が幸せに育ってくれることだけを願ってきました。
(ちなみにピアノの練習方法は、先生が、左手と右手に分けて演奏してくれたテープを聴いて曲を覚えたそうです。現在もテープで曲を覚えるのは変わっていないそうです。)
萎縮して、「障害があるからこれも出来ないあれも出来ない」にだけはなって欲しくなかった。
「生まれてきて良かった」と思ってもらえるよう、一つでも好きなものがあれば、自信にもつながるし、一生大事にできる。
子どもに障害があることで、親が落ち込むのは仕方のないこと。
ただ、障害の有無にかかわらず、子どもの可能性は無限。
好きなことがあれば、それを最大限に伸ばしてあげることが大切。
「いいお母さんにならないといけない」とか、「こうしなくちゃいけない」と、自分が作った枠に縛られてしまうと、プレッシャーになり、自分を追い込んでしまいます。
親は、やる時は一生懸命やり、息を抜くところではリラックスする。
いつも、いいお母さんでなくていい。
「僕は目が見えないんだね」
って言われたときに、何て答えようと思ったら、その後すぐに本人が
「でもいいや、僕ピアノが弾けるから。毎日すごく幸せに過ごしているから、見えてるといいなって思うときもあるけど、でもいいや」
と言われたときには、親ばかながら、よくここまで成長してくれたなっと思いました。
普通の少年としての学校体験も、満遍なくさせてあげたい。
伸行が行きたい、やりたいと言うものには、ストップをかけたくない。
父・孝さんは言葉遣いや、立ち居振る舞いなど、しつけを厳しくなされたそうです。
それが原因か、お父さんに対して、反抗していた時期もあったそうです。
【辻井いつ子さんの子育て】
●夢を実現させるための”覚悟と犠牲”
自宅練習室は常にエアコン稼動。27℃に。(調律がずれないように)
新築の家が建つほどの出費(レッスン、遠征)
●長所を最優先
「障害者らしさより、”伸行らしさ”を」(音楽教育を重視)
どんどん野外に連れ出し、自然の”音色”を体感
●思い立ったら即行動
息子の目は”耳”。あらゆる楽器を用意
電話帳で楽器の先生を探し出し接触
昨日の会見では、もし見えたら何を見たいかという記者の質問に、
「やっぱり一番は両親の顔、あとは、友達の顔とか、星とか、海とか、花火とか、見てみたいなと思いますけど、今は十分心の目でそういうものが見られているので、十分満足しています」
コメンテーターの方々のコメント
「心というか、魂というか、ものすごい感性にあふれていて、ピュアなものを感じます」
「非常に前向き。」
「世の中は天才というけれど、その大変な努力がすばらしい」
「二十歳だけど、ほんとに受け答えが綺麗な日本語をしゃべる」
「人間の美しい側面にふれることができるから、辻井さんのピアノは涙がでるほど感動する」
「これだけの人に感動を与えられるのは、辻井さんはたくさんの感動をいっぱいしてきたんでしょう」
「同じ時代に生きれて、私達は嬉しい」
「人の何倍も努力できる事が天才」
昨日の記事も読んでみて下さい。
『辻井伸行さんから学ぶ。大事なのは『心』。恐れや執着に捕らわれない事』